文豪の最初と最後

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世に文豪と呼ばれる人は数多くいるはずなのですが、残念ながら素養がない私には文豪と言えば夏目漱石と最近かぶれている島崎藤村位しか思い浮びません。手練れてくれば良いものができるのは世の常で、人は熟練の域に達すればよりよいものできるはず。そこで、夏目漱石の初期の作である『吾輩は猫である』と絶筆となった『明暗』を比較してみたが、やはり『明暗』は新聞連載であって、要所要所で小区切りが作られていて読みやすくなっていることは容易にわかります。

文章に区切りをつけるという意味では、その白眉は京極夏彦氏の『魍魎の匣』あたりからの京極堂シリーズでしょう。新書版の見開き毎が一つの小小説として成り立っているのです。残念ながら一ページの字数異なる文庫版になってしまうと、その小気味良さは失われてしまいます。まして、電子書籍となるとそんな配慮は全く感じ取れなくなってしまいます。

紙としての本の特性を上手く利用した本に泡坂妻夫氏の『生者と死者』があります。最初の一回目と二回目では全く別の話になってしまうのです。(ですから、他人の読んだものを貰い受けても半分しか楽しめないことになります。)もちろん種も仕掛けも(著者の泡坂氏は手品師でもあります)有るのですが、これもやはり紙の本だからできることです。

ここ数年は、電子書籍しか手に取っていないのですが、また、紙の本は世の中から無くなると思っているのですが、やはり紙の本にはそれなりの良さが有るようです。