物事の見方と悪事の排除の方法

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帯久という落語の演目があります。篤志家の泉屋与兵衛の元に金を借りに来る隣町の帯屋久七。与兵衛はそんな久七に金を貸し、御膳でもてなします。久七はそれに恩義を感じ、期日までにきちんと金を返す。そしてまた金を借り、金を返すというやりとりがしばらく続きます。

師走の多忙な時期に久七は与兵衛を訪ね100両の借金を返し、与兵衛はいつも通り御膳でもてなします。しかし、多忙な与兵衛は久七を御膳の前に一人残し、仕事に戻ります。一人になった久七は部屋の片隅に放置された100両を再び自分の懐に入れ、与兵衛の元を去ります。

時は下り、久七の店は繁盛しています。一方、与兵衛の店は大火によって焼かれ与兵衛は無一文となります。そして与兵衛は昔金を貸した恩義を返してもらおうと久七の元を訪れ、商売の立て直しを行う為の金を借りにいきます。

久七は金を貸すことなく与兵衛を追い帰します。

下げの部分は省略しますが、一般的には(私もそうですが)強欲で恩知らずな久七とお人よしな与兵衛という対比で話は進んでいきます。確かにそういう”一つの”見方は有るでしょう。しかし、敢えて別の見方をすれば、御膳で持て成したもののしかし主人である与兵衛は忙しさを理由に久七を一人取り残します。これはもてなしでは無く単なる餌の提供でしかありません。しかも、杜撰にも折角返してもらった金をその場に放置したとなれば、返した方の苦労を正しく労ったとは言えません。

久七はその時、惨めで屈辱的な扱いを受けたと感じたかも知れません。そんな屈辱的な仕打ちをした与兵衛を久七が追い帰すのも見方を変えれば正しい行動なのかも知れません。

人情噺として古くから語り継がれている話でも見方を変えれば全く違った見え方になります。芥川龍之介の作品で『桃太郎』があります。この作品では桃太郎は荒くれ者で村から厄介払いのように鬼の元へ行くよう仕向けられます。一方鬼が島の鬼は、平和に暮らしています。そんな鬼たちの元へ突然桃太郎が現れ、鬼を殺し、宝を奪います。なぜ突然そんなことになるのか、鬼たちは全く理解できません。

勧善懲悪の桃太郎でさえ見方を変えれば全く別の側面が見えます。

以上は、フィクションの世界ですが、現実世界でも同じことは言えます。例えば地球温暖化。極北の地に住む人にとっては寒冷化よりも温暖化の方が望ましいと考える学者もいるようです。また、ホッキョクグマに関しては、獲物の取れにくくなった沿岸地域から内陸部へ生活圏を広げることで種として順応をしているという報告も有ります。つまり、絶滅してしまう、頭数が減っていると報告されているホッキョクグマは生活圏を広げることで順応し、それを把握していない人間が沿岸部に住む頭数だけを数えて絶滅すると騒いでいるだけなのかも知れません。

安保法案もそうです。少なくとも安保法案は好戦的な世論に与するという見方もあれば、仮想敵国に対し同盟国と共に機動的に抑止力として働き、平和を維持する為の法案という見方もあります。なぜ、安保法案によって戦争になるという見方ができるのか、私には理解できません。いや、理解したくもありません。また、これで平和になるという理論も十分に理解できません。

そもそも、戦争に与する法案であるという想像をすることが間違いです。平和を維持するための法案であるという創造をすることも間違いなのかも知れません。

人々が安保法案に関心を持つこと、何らかの行動を起こすことが実は安保法案を強化しているという事実に気づくべきです。

もし、安保法案が正しくない、誤ったものだと想像したならば徹底的に意識から安保法案を追い出すべきです。意識から徹底的に安保法案を追い出し遮断することこそが安保法案へのエネルギーの流れを絶ち、実効性の無いものに追いやる唯一の方法であることに人々は気づくべきです。

無関心は決して消極的な行為ではありません。徹底的に無関心になり、意識から排除し、遮断することこそが有効な行為なのです。